『人形たちの夢』最後の挨拶



■GMがNPCを通じて何を考えていたか、シナリオを進めながら何を思ったかを簡単にまとめました。本当にとりとめのないものですが、目を通してくだされば幸いです



■シナリオを進行中、PLさんやギャラリーさんにとても怖がられていたエイヴァニー。一体何がそんなに怖かったのか聞いてみたかったのですけど、まあ「それっぽく」見えるように描いていたんで、キャラを立たせる上においては成功だったかもしれません(笑) あまりの「デムパ」っぷりにGMまでひどく気鬱になりましたからねー。

■彼女は「見た目は」社会性を保っています。ご隠居と交流を持ち、人形を作り、ノアやジュモの女主人である。ただ、それらは全て『母親は生きている』という妄想にすがって居たからこそのもの。『母親』こそが、常識と狂気を結ぶ鍵でした。もし(シナリオの流れで)PC達が『母親』を破壊していたら、エイヴァニーは一気に正気を失い、10歳の子供(発見された状態)に戻ってしまった。それほど大きな存在でした。

■それ故、彼女を「デムパ」で「イタイ」人間、と評することも出来ます。母親の死を受け入れられず、愚かな妄想にすがり、妄想を維持する為に殺人を犯していた。全ては自らを生かす為に。しかし、「デムパ」「イタイ」で括るだけでは決して見えない真実の姿がある。その領域まで踏み込んだPC達の行動に驚きを隠せません。一歩間違えれば取り返しの付かない痛手を被ったでしょう。でも、リスクを怖れずアプローチをかけてくれたことは、とりもなおさず、エイヴァニーをダークプリーストでなく、一人の人間として扱ったことになるのですから。

■スティージアのクエストを解いた時点で、エイヴァニーは自らの今後を決めていました。PC達が与えてくれた機会を無駄にすることは、彼女自身が許さなかったでしょう。ボークスと話したことも、彼女自身の精一杯の償おうとする意志の現れだったのかもしれません。



■ボークスやオーシャは、もともと外の視点からエイヴァニーの「罪」を追跡する存在として設定しました。同時に対エイヴァニー戦のサポートとしても位置づけていたのですが、PCと関わりを持つにつれ、思いがけず深みが出たものです。

■エピローグでボークスの台詞を書いているとき、ふと、あるニュースが思い出されました。「少年犯罪の被害者と加害者を対話させる試みを、ある施設で行っている」というもの。私はファンタジーを描く時も、題材を現実世界の出来事とか事件から拾い上げる口なので。しかし、今回のシナリオベースには無かったんですが…。結果として派生したものと考えた方が良いようですね。

■私達は「立ち向かえ!」とよく口にします。逃げずに障害に向かい、倒すことが正しいことだと。しかし、それ以上に難しく勇気が必要なのは「向き合うこと」かもしれない、と最近思うようになりました。倒すことが目的でなく、障害を受け入れ、同じ目線で時間をかけて心を交わすこと。テンション高く持ち上げず、腰を据えて対話をする「向き合うこと」の難しさは、折に触れ、実感する機会は少なくありません。ましてやそれが、自分の恋人を殺した相手ならなおさらというもの。

■ボークスはそれでも、エイヴァニーとの対話を試みました。「君達を通じて向き合う勇気をもらった」の台詞通り、ボークスの行動にPC達が大きく影響したのは事実。PCの選択は、エイヴァニーだけでなくボークスをも救ったと言えるでしょう。



■「後味の悪いシナリオ」というオーダーリクエストで立ち上げた『人形たちの夢』。シナリオを進めている時は分からなかったけれど、はからずも大きなテーマを提示していたのだな、と今になって気が付きました。
『許すとは?』とか『償うとは?』とか『生きるとは?』とか…。どれも到底一言で片づけられない、重いもの。それを内包していたのか、としみじみ感じています。
■それらを浮き彫りにしたのは間違いなくPLの選択でありPCの行動だった、と改めて実感です。想像を越えた結末に持っていったみなさんのパワーに、驚きと共に深い感謝を。

■最後にGMとして運営を振り返ると、自分でもあまり巧いとは思えなかったです。どうしても書きすぎてしまうきらいがあるようでして。結果、PLの発言を奪ってしまってるのではないか、と気が付くこともぽつぽつ…(笑)。こればかりは経験を積んで削ぐべき贅肉を削いでいくしかないのですが…まあ、その辺りは気長によろしゅう、といことで(笑)。